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すみだのおもかげ「鐘紡の跡地とその周辺」 平成17年4月講座

さくらカレッジ講座「すみだ学記録集」

墨田が育んだ大紡績会社


明治期に日本の近代工業興隆の一翼を担って創業し、昭和期にはカネボウの名で本業の繊維だけでなく化粧品、薬品、家庭用品、食品など国際的なスケールで事業展開した鐘淵紡績株式会社。鐘紡の愛称で親しまれたこの大会社は明治22年(1889年)に東京府南葛飾郡隅田村鐘ヶ淵(現・墨田区墨田)の地に誕生した。白髭防災団地 近代日本の殖産興業の波に乗って順調に事業を拡大し、関東大震災で多くの従業員死傷者を出しながらも、その2年後の大正14年(1925年)には女子従業員6000名、男子従業員470人に膨れあがっていたというから驚きだ。その後、昭和期に入ると周辺の市街地化が進み、公害問題も一般化してきて37年(1962年)にはこの東京工場は閉鎖となり、化粧品工場として再開されるが、それも44年(1969年)には小田原へと移って行った。その跡に今の防災団地などが立ち並んでいる。

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寺島(現東向島)育ちの鈴木都宣氏は子供のころ、バスの車窓から鐘紡ゆかりの洋館がひときわ目立ってみることができたと回想する。鈴木氏は「鐘紡の洋館と社宅」(すみだ創立十五周年記念、会報集大成)で、工場敷地内にあったという教会や幼稚園、子供の家などの洋館について、建物の概要や建設の目的など関係者の証言などもまじえて、さまざまに紹介している。ここでは、同じ論文の中で洋館と並ぶ同氏のもうひとつのテーマになっている鐘紡の社宅に絞って概要をみてみよう。
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日本の「紡績工業がいわゆる女工さんたちの手に支えられていたことは周知のことだが、「鐘紡百年史」によると、創業間のない明治25年(1892年)1月現在の従業員数は男工手412人対し女工手1563人だったという。女工手は15歳から25歳までで、その多くは愛知、和歌山、大阪、広島、石川、新潟、岩手などの出身者。昼業は午前6時半から午後6時半まで、夜業は夜6時半から翌朝6時半まで、一週ごとに夜業と昼業を交代させていたとあるから、今では信じられないくらい長時間労働だったらしい。
工場敷地内にはこれから従業員たちが起居を共にする寄宿寮や世帯持ちのための社宅が配置されていた。いずれも時代を反映する細長い棟割り長屋で、鈴木氏が知人から入手した工場配置図には工場内の建物の多くが従業員の住居に当てられている様が描かれている。

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「写真の中の明治・大正」 国立国会図書館所蔵写真帳から 鐘淵紡績株式会社 明治39年

この配置図から伺える特徴として、鈴木氏は(1)女子寮と男子寮の割合は当然のことながら女子寮の方が圧倒的に多い(2)しかし、従業員で比べると女子寮の割合は男子寮より相対的に少なく男尊女卑の傾向が見られる、と指摘している。鐘紡の社宅は工場敷地内だけでは収まらず、歩いて5分くらいの地点にも点在していた。旧隅田町4丁目の町内半分以上は鐘紡の社宅だったという証言もあるという。社宅には部屋数や広さ、一階建てか2階建てかで等級があり、一番狭い間取りは6・4.5・2K、2階建ての社宅は一階が6・6・2K、2階が6畳ひと間で多少広く、幹部住宅の一階は6・8・3K、二階は6・6・3と最も広かったらしい。また、結婚した従業員が住むアパート形式の棟もあったという。
鈴木氏によると、大正時代に勤務していた人たちは異口同音に鐘紡の福利厚生施設の充実ぶりは近隣に鳴り響いていたと証言した。付属の幼稚園には浅草や千住からの”越境入学”も盛んだったという。

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以上が鈴木氏の論文から伺い知れる鐘紡東京工場全盛時代の社宅の有様の一端だ。それから時代は一気に飛んで今は平成の世の中。隆盛を極めた鐘紡はカネボウに社名を変更した後、バブル崩壊の荒波を受けて、2007年に会社清算に追い込まれ、化粧品会社などを残して百有余年の歴史の幕を閉じた。
鐘紡に限らず、墨田には後世に名を残した大企業、優良企業が数々ある。日本経済のリード役を務め、地域振興にも貢献したこうした企業たちの栄枯盛衰をたどるのも意義あることのように思う。

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写真説明

綾瀬橋から見た花王の物流センターとカネボウ化粧品の建物鐘紡は、昭和50年代から粉飾決算を重ね、平成10年から14年の五期分で2150億円の粉飾が明らかになり、産業再生機構により平成19年に解散・事実上の倒産となりました。
多角経営が災いとなったか、実質的創始者の武藤山治氏の「人間尊重の経営」「家族主義的経営」が生かされないまま超有名企業が消え去ったのです。
唯一、花王の傘下になってカネボウの名が残った「カネボウ化粧品」は平成25年7月に白班問題がおこしました。名門カネボウの名はどうなってしまうのでしょうか。

カネボウ公園内にある発祥の地の碑
この碑の裏にある説明文によりますと昭和44年に工場を移転したとあります。上記「すみだ学」のとおり小田原の化粧品工場ですね。

発祥の地の碑鐘紡跡地には今なお広い空き地が残っています。地図では区立墨田五丁目運動広場、都立忍岡高等学校運動場と載っていて、ここを囲っている塀には、往時を偲ぶ赤いレンガが露出している部分が残っています。
しかし、この広大な空き地もいずれ再開発されてしまうんでしょうね。一つの大学が出来そうな規模です。

昭和八年の鐘紡の敷地

参考文献:
すみだの地図-その二-(墨田区立緑図書館叢書五)
鐘紡の興亡・日本近代経営史の光と影/武藤治太、松田尚士共著(公益社団法人國民會舘・新風書房)
写真撮影:2014年6月〜8月