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すみだのおもかげ 玉ノ井の地名と街の移り変わり 平成14年2月講座

さくらカレッジ講座「すみだ学記録集」
玉ノ井の地名と街の移り変わり/成蹊大学教授 髙木新太郎

1、全国の玉ノ井(玉井)の地名由来

個人的な話で恐縮だが、同人誌である『玉ノ井思潮』(第3号~15号)で、「玉ノ井の地名」と題し、地名はもとより東武と京成、戦前の町会、玉ノ井駅名変更問題、教育の動向、向島博覧会、玉ノ井地区の現状、他、色々なことを連載している。ここでは、そうした議論を踏まえて、地名を中心としたが、本稿を書くにあたり追加部分も多い。
デンくん最初は全国の玉ノ井の地名である。玉ノ井は、玉の井、玉井(たまい)とも含め、これらを同一視した。玉ノ井の地名由来は、大別すれば(A)地域形状型(例えば井戸との関係)、(B)人名、(C) (A)又は(B)、他、(D)その他、となる。

(A)の例は福島県大玉村の玉井で、井戸から玉が出てきた事に由来する(16世紀後半の史実より)。大玉村は、東北本線本宮駅からバスとなるが、そのバス停に「玉の井下町」があった。下町(しもまち)はむしろ「したまち」と読みたくなる。但し、地域形状からは同じ趣旨の町名でも、玉水、玉泉等は対象外とした。

(B)の例は、金沢市玉井町である(90年代に行ったら見付からなかったので、現在は町名変更か?)。江戸時代は藩士玉井家の本宅地、下屋敷であり、1869年に玉井町が成立したとあるから、人名説と推定される。この付近は、JR金沢駅に近いホテル街であり、今後の発展が予想される。

(C)はかなり複雑であるが、2つの場合を述べておく。第一は、名古屋市熱田区玉の井町である。ある文献によれば、「大宮ノ北ニ水ノ湧出スル処アリ。玉ノ井里名ク。」とある。これによれば、(A)の地域形状型になる。他方、「大宮ノ森ノ北ニ昔時神宮玉ノ井弾正ノ忠が宅地也」とあり、玉井弾正忠が文正元年(1466年)以降にも、代々出てくるという。こちらを採れば人名説となる。(A)と(B)の関係が不明のため両説を採り(C)となる。熱田区玉の井町は、大通り(国道1号線か)を挟んで熱田区役所の反対側にある。

(C)のもう一つの場合は、熊谷市玉井(私が訪問した時は、町名変更中であった)である。原理的には熱田区玉の井町と同じだが、大掛かりである。『熊谷市史』(前、後、通史)によれば、次のようになる。1889年に玉井、久保島、新堀、高柳の4村が合併し、玉井村となり、1941年に熊谷市に編入された。玉井の由来として6説紹介されるが、そこでは人名説をとらず、珠という形容詞と井戸の組み合わせが多い(4説)。伝承的な例としては、793年に興福寺の僧・賢景が井戸を掘ったら宝石が2つ出て来たので「玉井」と呼んだ、というものである。また、玉井地区にある玉井寺と関係する説も多い。この立場をとれば地名由来は(A)となるが、そう断定もできない。
この地域は武士が活躍した。これにも2つの説があるようだが、玉井四郎資重(または助実)が保元の乱(1156年)で活躍した。玉井氏を重視すれば、人名説となる。玉井四郎が何故「玉井」を名乗ったかは不明である。

さらに、これが愛知県木曽川町(現、一宮市)玉ノ井と関係している。玉ノ井付近に玉井荘という荘園があった。元暦2年(1185年)に、追放された尾張国御家人の玉井四郎助(資)重は、当荘の住人と思われる(吾妻鏡)。また、玉ノ井には「玉の井湧出の旧跡」があり、”享保とある井戸枠と、天文11年(1542年)とある楔(クサビ)は現存している”という。

現在の「いろは通り」 玉ノ井カフェあたり

現在の「いろは通り」 玉ノ井カフェあたり



玉ノ井由来の判断は「玉井荘」、「玉井四郎助重」、「玉の井湧出」の三者の関係に依存する。人名説(B)が有力なように思えるが、断定しにくいため(C)とも言える。

なお、熊谷市の玉井地区ではJR高崎線籠原駅から徒歩30分ぐらいの郊外である。一宮市の玉ノ井は、名鉄尾西線の終点「玉ノ井駅」付近である。日本で唯一の玉ノ井駅だが、近くに木曽川が流れている。

(D)の例は、台湾の台南県玉井郷である。この地域は元々「焦吧年」(原住民はタパニと発音)と呼ばれていた。民國9年(1920年)に日本人がこの発音に近い「玉井」と改称した。玉井郷の地名は現存し、台南県庁のWEB(2006年11月)によれば、玉井郷の人口は16,019人という。台湾の玉井が根付いているところに、台湾への親近感を抱くが、ここはマンゴーの名産地として有名である。

これらの例からも分かるように、全国の玉ノ井の地名由来は複雑である。特に同一地域について(A )と(B)が並存する。我が国で最古の玉ノ井はどこだろうか。熊谷市での僧の話は、伝承的なものであり、むしろ山梨県一ノ宮町(現、笛吹市)にあった玉井郷であろう。玉井郷は、和名抄(930年代)に出てくる。この地名由来も微妙だが、個人的には(A)ではないかと思っている。また、地名辞典から接近したためか(B)と確定しにくい場合が多い。もっとも、人名は「歩く地名」とも言われるため、地名由来は(A)が基本となるのではないだろうか。

また、現在調査したところによれば、玉の井の地名は消滅した地域(例、山梨の玉井郷、ここ寺島の玉ノ井等)を含め、国内で約30ヶ所弱あり、これに台湾の玉井郷が加わる。もし(A)が主流なら、国際的にもっと存在する可能性はある。

2、寺島の玉ノ井の地名由来

玉の井いろは通りここ(寺島)の玉ノ井は、徳川幕府が編纂した『新編 武蔵風土記稿』に出てくるから、遅くとも江戸時代には地名として存在したことになる。しかし私の調査によれば、ここの地名由来は不明であるというのが現在の結論である。ただし、諸説があることも事実だが、それが「作られた由来」(あってはならないが)のように感じられ、今までの諸説に賛同できない。その中から、影響力のある2説とそれに対する私見を述べておきたい。
第一の説は、“地名は明暦年間(1655~58年)代官多賀藤十郎が住民からまきあげた金で囲った愛妾の名にちなむ”というものである。この論拠となる文献は不明だが、『江戸東京地名事典(改訂第一版)』(1970年)、『コンサイス日本地名事典』(1989年)等の地名事典で紹介されているから、その影響力は大きい。しかし、稲垣史生『考証・江戸を歩く』(1988年)では、この説に疑問を投げる。すなわち、多賀藤十郎は大番を勤めるほどの大旗本なら、側室が居るのは当然である。妻妾同居が普通の時代に、玉ノ井は多賀屋敷(後の百花園)に住まず、何故、別の場所に住んだのかは疑問である(百花園は北居村か)という事になる。

さらに、鈴木都宣『寺島村ゆかりの旗本家「多賀氏を探る」』(1997年)は、多賀藤十郎(これは多賀氏三代目の藤次郎のミスと指摘)と法泉寺の抗争の件、多賀家四代とその子孫、多賀氏と知行地、その他、著者が各種資料や関係者に会ってまとめた多賀氏に関する労作である。同書を紹介する紙幅はないが、その第一章が「多賀藤次郎の悪評を正す」である。例えば、藤次郎が処刑されたという事実がないことを示している。前述の2つの地名事典は、鈴木氏が同書で示した毎日新聞墨東版(1954年7月12日)の誤った記事に基いているのであろうか。その記事とは、”多賀藤十郎という男は権威をカサにして悪行の限りをつくし、良民を苦しめ私服を肥やしていた。そして法泉寺、蓮花寺両寺の御朱印地を乗っとろうと企て、・・・・”(同書、17~18ページ)というものである。しかし、鈴木氏の調査研究により、この記事は全くの誤解である事がわかる。

鈴木氏の研究や稲垣氏の指摘より、この玉ノ井説は誤りであると判断できる。それにしても新聞記事は思い込みが強く、不正確な場合があるため注意が必要である。また引用文献のない事典等も要注意である。

第二の玉ノ井に関する説は、『東京近郊名所図絵』(原本は1910年)による。それによれば、ここに来たら同囲20間ばかりの丸い塚があったが、里人に聞いてもわからなかった。そこで、ここの玉ノ井を熊谷市の”玉の井四郎助実の一類住居の地にてもあらんか”と推論した。すなわち、隅田川の上流は荒川であり、荒川は熊谷市を流れているから、熊谷市の玉の井地区の縁者が下流してこの地に住み、ここを玉ノ井とした、という推論である。

しかし、私自身はこの説には否定的である。熊谷市の住民がここの玉ノ井に移住したなら、本玉ノ井か北玉ノ井であろう。両玉ノ井は、旧寺島5~7丁目の一部を構成する。したがって玉の井町会は両玉ノ井の中(一部)に入る。玉の井町会には800世帯加入しているように思えるが、玉井(玉ノ井)姓の人が誰もいない。塚を作るほど多くの縁者が住んだならば、誰かが居ても良いはずである。同書の推論に対する疑問である。

ただし、地元民として、図絵でいう「丸い塚」がどこにあったか、という事が気になる。玉ノ井は平地が多く、周辺より高い地点は少ない。近所の年配の方の話等から判断すると、聖徳寺付近が有力な地点と思われる。また、紹介した2つの説は人名に因む説だが、人名説は地元にもその足跡があるはずだけれど、ここではそうした人物が見当たらない。ここの玉ノ井地区は、もともと扇状地であるから、井戸等の水には事欠かない。しかし、メルクマールとなる特殊な井戸等がなく、地域形状説がとりにくいのも事実である。

3、京成電鉄、東武鉄道と、街の移り変わり

玉ノ井地域は東武鉄道(以下、東武)と関係が深いが、戦前の一時期は京成電鉄(以下、京成)の支線も通っていた。東武との関係の深さは、単に路線のみならず、梅若小学校(1936年開講)が根津嘉一郎(東武社長)の別荘の跡地に建設された事からもわかる。簡単に、京成の駅等から述べておく(『京成電鉄85年のあゆみ』を参照)。
■ 1909.6/30 京成電気軌道株式会社設立
■ 1912.11/3 押上~伊予田(現、江戸川)、支線曲金(現、高砂)~柴又間11.5kmが開通し、曳舟、四ツ木、立石が開業
■ 1914.6/20  曳舟~四ツ木間に向島開業(1947.2/28 廃止)
■ 1923.7/11  荒川新橋梁竣工、荒川(現、八広)開業、四ツ木移転
■ 1928.4/7  支線白鬚線(向島~白鬚)1.4kmが開業し、長浦、玉ノ井が開業。この支線は1936.2/28に廃止
■ 1932.9/1  京成請地が開業し、東武と共同使用。1949年10/21に廃止
■ 1960.12/4  都営地下鉄1号線(現、都営浅草線)の一部、押上~浅草橋間3.245kmが開通し、本所吾妻橋、浅草、蔵前が開業した。京成は相互乗り入れをし、東中山~浅草橋が直接運転

現在の京成電鉄車両 '14/9/23 押上3-1の踏切から撮影

現在の京成電鉄車両
’14/9/23 押上3-1の踏切から撮影



以上は、墨田区を中心とした京成路線の沿革である。次のような点に注目したい。第一は、京成の開業の出発が押上線であって、京成本線ではない点である。本線の開業は、青砥が1928年11月、青砥~日暮里が1931年12月、日暮里~上野(開業時は上野公園)は1933年12月であった。押上線と比べると、約20年も遅い。このことは浅草乗り入れを断念して、別ルートで都心乗り入れを実施したものと推測できよう。その結果、押上線は都心から郊外へ、本線は郊外から都心へと敷設の延長方向が逆になっている。

第二は、向島と荒川の両駅の関係である。向島は押上線開通後、約1年7ヶ月での開業であるから、当時かなりの住民がいたと思われる。これに対し、荒川は荒川放水路開削に伴って開業されたようである。そのためか、荒川駅は八広駅になるまで、改札口が住民のいる街側(向島側)になく、放水路側にあるという変わった駅であった(八広でも、もっと西の通り側に改札口が必要である)。向島駅があれば、この点において住民の不便は多少緩和されるだろうが、どういうわけか戦後まもなく廃止された。

白鬚駅に停車するモハ33形

白鬚駅に停車するモハ33形



第三は、玉ノ井地区と最も関係のある白鬚線である。この路線は浅草、上野等への乗り入れへの代替として建設された。白鬚線は、将来的に王子電気軌道(現、都電荒川線)および白鬚~日暮里ルートを考えていたが、予想より乗降客が少なく短命で廃止された。しかし浅草寺への繁華街への乗り入れの試金石として、玉ノ井が選択されたとも考えられる。仮にこの推論があっていれば、京成がそう思うほど有望な地域であったとも言える。白鬚線の廃止と本線の建設が並行して進行し、京成の決断の時期であった。

第四は、京成請地の開業である。東武と京成はどういうわけかあまり”仲良く見えない”(仲悪いわけではないが)。例えば、牛田と京成関屋は隣接であるにもかかわらず、駅名も異なれば、両社とも各駅停車扱いである。曳舟にしても、お互い近い路線なのだから、駅名も異なれば、両社とも各駅停車扱いである。曳舟にしても、お互い近い路線なのだから、何らかの工夫があっても良い。これに対し、京成請地は、東武と共同使用を図り、利用者の便に供した点は画期的であった。しかし請地も戦後まもなく廃止されてしまった。

次に、東武の駅の沿革を述べておく(『東武鉄道百年史』を参照)。複雑になるので、東向島駅を中心に示しておく。
 ■ 1897.11/1  設立登記
 ■ 1899.8/27  開業(北千住~久喜)
 ■ 1902.4/1  白鬚
 ■ 1905.7/16  営業休止
 ■ 1908.4/4  廃止
 ■ 1924.10/1  玉ノ井として営業再開
 ■ 1945.5/20  営業休止(東京大空襲による被災のため)
 ■ 1949.10/1  営業再開
 ■ 1987.12/21  東向島に改名
東向島の大きな特徴は二つある。一つは、営業の休廃止を繰り返したことであり、もう一つは駅名変更を伴った事である。これらは、街の移り変わりと密接に関係するが、その前に他の駅について若干紹介しておく。東向島の沿革からわかるように、北千住から業平橋(開業時は吾妻橋)への延伸は1902年4月1日であった。開業当初から現在まで、休廃止もなく駅の改名もなく、営業されているのは曳舟と鐘ヶ淵の2駅である。業平橋は、東向島と類似し、廃止、再開、改名を経験した。業平橋から浅草(開業時は浅草雷門)への開通は1931年5月25日だったが、その時の開業駅が隅田公園(1958年廃止)と請地であった。
話を東向島に戻そう。まず営業の休廃止であるが、1902~1924年は利用客が少なかったためと思われる。推測するに、この頃、寺島地区は寺島ナスで代表されるように、近郊農家が中心であった。曳舟(亀戸から南西進を企画)と鐘ヶ淵(鐘ヶ淵紡績があった)は、それなりの意味はあったが、2駅あれば充分であったものと思われる。したがって、鉄道から見た玉ノ井の市街地化は、関東大震災以降となる。

第二は、駅名の改訂である。駅名を定着させるには固定したほうが良く、改名には何か理由があったはずである。まず、東武は19世紀に開業しており、大手私鉄の中でもかなり古い鉄道会社である。1902年の駅名での注目点は、地域のメルクマールとなる建造物(吾妻橋、白鬚)と地域の特色を示すこと(曳舟、鐘ヶ淵)であって、地名とは無関係であった。こうした地域の特徴を重視した点(地名では味気ない)に、個人的には好感を抱く。

click me! 墨田三丁目交番
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1924年に、白鬚を地名の玉ノ井に改名した。この改名の本当の理由はわからないが、結果的に東武にとって大いにプラスの効果をもたらした。玉ノ井は遊郭街として発展したからである。特に荷風の『濹東綺譚』が朝日新聞に連載(1937年 昭和12年)されて以来、玉ノ井は遊郭街の代表的なブランドとなった。当時の年間乗客数(1935年度)を見ると、請地51万、曳舟60万、玉ノ井116万、鐘ヶ淵62万という状況で、玉ノ井の集客力は大きい。京成を見ても、当時の遊郭街の南側に位置する向島駅が134万とダントツに多い。こうした当時正業であった遊郭が(必ずしも望ましい職業と思っていないにせよ)、街の繁栄と鉄道会社の収益増に貢献したことは事実である。

最後は、玉ノ井から東向島への改名である。
これは、全国紙でも報道され、それだけ「玉ノ井」に関する知名度が高いことを再確認した。詳しくは『玉ノ井思潮』(第8号)の拙稿を参照されたいが、概略は次の通りである。

東向島駅に名称変更まず、東武から玉の井町会に入った第一報は1987年10月13日で、”11月1日より玉ノ井駅を東向島駅に変更したい”旨を受けた。東武へ10月16日の説明会を要請したのを皮切りに、何回かの会談が持たれ、現在の「東向島(旧玉ノ井)」となった。東武は90周年事業の一つとして、東武博物館の建設計画があり(1989年5月オープン)、これに合わせてどういうわけか駅名を変更したかったようである。東武の主張は大きく2つあるように見えた。
(ア)乗客の便を考え、町名と駅名を合わせたい。
(イ)玉ノ井の名前は暗いイメージがあり、子供に説明しにくい。

これに対し、玉の井町会の主張も簡略化すれば次の3点に要約できよう。

(ウ)64年間にわたって愛され親しまれてきた駅名であり、(イ)の主張は駅名及び玉の井町会に対する最大の屈辱である。我々の誇りと名誉を著しく傷つける。
(エ)地名の由来は古く、玉の井四郎助実と関連する由緒ある地名である。
(オ)近くは、荷風の『濹東綺譚』等に紹介された文化的価値のある地名で、絶対に消してはならない。

東武側の(ア)は、地名が良いなら正当である。しかし、”東向島”は”向島”の子会社のように思え、私は賛成できなかった。少なくとも「向島中央」くらいの町名が妥当であろうし、地域の名所名跡等が考えれば、最寄り駅になる「向島百花園」が最適であろう。

(イ)は東武の失言(あるいは本心)と思え、(ウ)は町会の当然の反論である。(エ)は前述のように疑問に思ってはいるが、町会長がこうした事実を知っている点にその見識に深さを知る。(オ)は町会長の言う通りであると思われる。

こうした角逐は、かつての地場産業であった遊郭の歴史を消滅させたいという東武と、遊郭は町の正業の一部であった歴史があり、それを前提に街の発展を考えて行きたいという玉の井町会の考え方との対立である。個人的には、玉の井町会の意見に賛成であったが、結果的に「東向島駅」となったわけである。これは、東武がまず周辺町会から駅名変更の承諾を取り付け、最後に玉の井町会に話を持ってきたという(外堀を埋めるような)戦略があった。玉の井町会は、他町会を敵にする事ができず、カッコ付きで”玉ノ井”を入れる事で妥協したのである。

この事は、他町会も遊郭の歴史は避けたいという意思表示である(もとより玉ノ井を主張した人もいたとは思うが)。しかし、(オ)にあるように、これは歴史的遺産の一部であり、文化的価値もあるとは思わなかったのだろうか。少なくとも“街づくり、街おこし”を考えるとき、好き嫌い等ではなく、街の歴史を受け止め、それらをひっくるめて誇りと自信を持てなければ、街の発展は難しいであろう。玉ノ井地区では、最近ネガティブに沈む発想ではなく玉ノ井の歴史を前提に街おこしを考えるプロジェクトが展開されつつあり、私も期待している。

photo : ’14/9~10月