NPO法人 すみだ学習ガーデン > すみだ学 ~すみだのおもかげ > すみだのおもかげ〜すみだと落語とその舞台〜 平成23年10月講座

すみだのおもかげ〜すみだと落語とその舞台〜 平成23年10月講座

さくらカレッジ講座「すみだ学記録集」
すみだと落語とその舞台
区切り線

江戸開幕以来、神田・京橋・日本橋を中心とした、いわゆる”下町”エリアが時代とともに広がりを見せはじめると、それにすみだと落語の講座舞台比して、庶民が日常生活の糧とした文化も広がりを見せてきました。日本を代表する大衆芸能である「落語」が誕生したのも、そうした天下泰平の江戸の世の元にでした。
江戸の初期に、鹿野武左衛門により「座敷仕方咄」としてはじめられた落語は一時期栄えたものの、幕府の弾圧にあい、一時期、衰退してしまいますが、文化の 根を断つ事はいつの時代も不可能で、江戸後期を迎えると、烏亭焉馬により再興されます。
その烏亭焉馬(うてい えんば 寛保3年=1743~文政5年=1822)が 生まれ暮らしたのが本所相生町。現在の両国でした。そして「咄の会」と称した落語会を開いたのが向島。昨今ブームとして取り上げられる落語は、その流れを汲んでいるのですから、ここ「すみだ」はまさに「江戸落語再興の地」なのです。

えんば焉馬出現以降、職業落語家が増え、落語はますます隆盛。明治に入ると「近代落語の祖」と言われ、現在では落語界の神様的存在である三遊亭圓朝が登場し活躍します。怪談噺や芝居噺で人気を得、今は千駄木にある全生庵に眠っていますが、代表作『怪談牡丹燈篭』や『名人長二』を創作したのは、圓朝が壮年期を過ごした本所二葉町(両国エリア)であり、圓朝が作品として書き上げた『塩原多助』の住居も目と鼻の先にあります(落語では「塩原太助」ではなく「塩原多助」と表記します)。圓朝は数多い作品を残し、その中で近代化とともに失われつつある江戸の情緒を描いたのですが、そうした世の移り変わりを眺めていたのも、ここ「すみだ」の地だったのです。
圓朝の教えと精神は多くの弟子達に引き継がれていきますが、圓朝も芸を通して感じた、日本の近代化を産業の面で支えたのも「すみだ」の地。そこで働いていた人達が、疲れた体と心を癒したのが娯楽であり、落語に漫才、講談、そして向島にあった日活撮影所で撮られた映画がその中心にあったのも間違いありません。

今回の「すみだ学~すみだと落語とその舞台~」では、
三遊亭圓朝 1)江戸落語の発祥はすみだにあり
2)本当の寄席の発祥はどこであったのか
3)三題噺の誕生
4)可楽十哲と天保の改革
5)文明開化に三遊亭圓朝登場
6)三遊亭圓朝と娯楽の広がり
7)久保田万太郎『末枯』を読む
8)落語の行方
といった題を各回に設け、意外と知られていない「すみだ」の地と関連の深い演芸を、歴史(江戸~大正)、文化、娯楽といった多角的な面から、豊富な資料と残された音源から検証していきました。現在でも「すみだ」に暮らす芸人・文化人が多いのは、そうした背景があったということも立証できたかと思います。

また、今回の講義で取り上げられなかった、古今亭志ん生と「なめくじ長屋」、向島の柳好、玉ノ井で生まれた三遊亭圓歌、相撲と講談、謡曲『隅田川』世界、キネマの地向島・・・・と、まだまだ「すみだ学」で取り上げるべき題材はあります。機会があれば、それらを一つ一つ検証していきたいのとともに、みなさまのお話も聞かせていただければと思っています。

塩原多助高札 だるま横丁

塩原多助炭屋跡
塩原橋の北にある高札
人情話「塩原助一代記」は三遊亭圓朝作
両国三丁目 photo:’14/04/27

圓朝作といわれる人情話「文七元結」の舞台の だるま横丁があったところ。
今と昔の道は一致していない。
東駒形一~二丁目 photo: ’14/05/08

画像解説
三遊亭圓朝の画像
・Wikipedia contributors. “三遊亭圓朝.” Wikipedia. Wikipedia, 6 Jan. 2014. Web. 26 Apr. 2014. よりパブリックドメイン画像
・ 古今亭志ん生と「なめくじ長屋」は当サイト「すみだの大名屋敷」遠江横須賀藩を参照
・烏亭焉馬の説明板の場所は墨田区千歳二丁目
・亀沢3町目の三遊亭圓朝の旧居跡と相生町五丁目(現緑一丁目)の烏亭焉馬の旧居跡は撤去されたのか ’14/5/6日時点では確認できなかった。本来あった場所
・塩原多助の高札の場所は墨田区両国三丁目3-10
・だるま横丁とは撮影地点(東駒形2-10)からこの道路をはさみ白いビルの増田小児科の奥あたりに続いていた。墨田区東駒形一丁目19から11番付近。