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すみだのおもかげ~「多賀藤次郎の悪評を正す」について  平成14年2月講座 

さくらカレッジ講座「すみだ学」記録集
多賀藤次郎の悪評を正す
'14/02/11 向島百花園入口向島百花園は200年以上も前に開園、今に江戸町人文化の粋を伝える名園として広く知られている。しかし、その名園の前身が「多賀屋敷」と呼ばれる元武家屋敷の跡地だったことはあまり知られていない。まして、その屋敷の主(あるじ)だった多賀藤次郎の評判が極めて悪かったことについては知る人がほとんどいないだろう。鈴木都宣氏が「すみだ史談」第14号、第15号に「多賀藤次郎の悪評を正す」と題して、多賀藤次郎の名誉回復のための詳細な文章を寄せている。これによると、「寺島村の地頭多賀藤次郎は宝泉寺・蓮花寺ご朱印地から年貢を取るなど不正が露見 し、屋敷で処刑される」(「墨田誌考」上、昭和50年墨田区役所刊)などとされる。鈴木氏はこうした記述に疑問を感じ、真相を知ろうと、図書館へ通ってはいろいろな関連書を読んでみた。たまたま手にした前島康彦著「向島百花園」(昭和56年・東京都公園協会発行)に「藤次郎の処刑は事実ではない」との一文を見いだし、内容に納得したという。
'14/02/11 多賀神社 正門を入ってすぐ左鈴木氏自身もその後いろいろと調査を重ねて「永年の紛争を乗り切り、多賀家は養子をとって次代へと続いていくのである」との結論を導く。鈴木氏の論考は詳細を究め、要約は難しい。墨田の名園、百花園の前史として興味深い。この一件に関心のある人は「すみだ史談会会報集大成」(すみだ史談会創立15周年記念)にも採録されている鈴木氏のこの論文に一度目を通したらいかがだろうか。
写真 左上:百花園入口 右:多賀神社 百花園からのスカイツリー 写真は全て平成26年2月11日
 

補足(ホームページ担当者)
多賀氏は徳川家の700石の旗本で、北の抑えとして寺島・請地・渋江・川端を知行していた。現在の「向島百花園」が多賀氏の陣屋であった。
寺島における初代多賀角左衛門常次の時(慶安元年 1648年)に、三代将軍家光は全国に3157通の朱印状を発給し、法泉寺・蓮華寺も朱印状により所領が安堵された。(法泉寺8石・蓮華寺7石)
朱印地の租税は免除されていたが、多賀氏三代藤次郎常明の時、この二つの寺から年貢を取るなどの不正があり、代官伊奈半左衛門に訴えられ、寺社奉行本多弾正小弼により正徳三年(1713年)に処刑された。
以上のような話が、昭和29年7月12日付けの毎日新聞墨東版、墨田区昭和43年刊「史跡等調査報告書」、同50年刊「墨田誌考」に掲載されたため、多賀藤次郎の悪評が定着したのである。
実は次の多賀氏四代主税高國が甲府勤番の時(正徳六年=享保元年 1716年)に、同僚と刃傷事件を起し死去し、お家は断絶となったのである。その四年半後の享保五年(1720年)に、隠居であった藤次郎常明に生涯十人扶持を賜ったと「断家譜」にあるように、幕府の公式記録に藤次郎の打首、切腹などの記録は無く、誤伝が独り歩きしたものか?
この講座は郷土史家であり、多賀氏との血縁関係でもある鈴木都宣(くによし)氏が、その誤記を正し、真実を追求した結実である。
引用:寺島村ゆかりの旗本家「多賀氏を探る」鈴木都宣著 / 下町タイムス社より