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すみだのおもかげ~曳舟川~その流れの歴史 平成15年2月講座

さくらカレッジ講座「すみだ学」記録集

曳舟川その流れの歴史

1、『曳舟』という地名

歌川広重 四ツ木通用水引ふね今 、東武『曳舟』駅と『京成曳舟』駅の周辺で、市街地再開発事業が進行し、『曳舟』の街は大きく変わろうとしている。この『曳舟』という地名の起源について考察する。
現在、名称に『曳舟』という2文字をかぶせている施設の代表的事例を挙げてみる。
◇東武鉄道『曳舟停車場』(明治35年)※現在の東武『曳舟駅』
◇京成電鉄『京成曳舟』駅(大正元年)
◇曳舟尋常小学校(現曳舟小・昭和9年)
◇曳舟中学校(昭和22年)
◇曳舟川通り(昭和30年)
◇曳舟文化センター(昭和62年)
これ等の施設は、曳舟川通りを挟んで東西にあり、曳舟川にその名の起源があるといえる。
画像:歌川広重 四ツ木通用水引ふね

2、本所の開拓と本所上水

歌川広重 小梅之堤
明暦の大火(1657)は江戸の2/3を焼失」し、死者は10万人を数えた。
この大災害に直面した江戸幕府は、軍事優先から防災優先の都市づくりに政策を転換した。
そこで登場したのが本所の開拓である。
大火後の江戸復興では、道路の拡張、火防地の設定、武家地・町人地・寺地の移転などから、新しい土地が必要となった。その結果、隅田川東岸の本所・深川の湿地帯や海岸を埋め立て新しい市街地を造成した。
しかし、この地は低湿地であり、海にも近かったことから、飲用水を得る事が困難であった。
万治年間に埼玉郡瓦曽根溜井を水源とする亀有上水の開削が行われた。本所の開発工事は一時中絶したが、元禄元年に再開し亀有から本所法恩寺前まで掘削し飲用水とした。これを亀有上水、また本所上水とも称した。
画像:歌川広重 小梅之堤

3、本所上水の廃止と曳舟川

曳舟川の道標本所上水の給水範囲は本所・深川の一部に限られていた。
また上水が自然流水のため、水のかかりが悪かった。更に本所開発当初には堀井のなかったこの地も、その後は家ごとに井戸が掘られ池の水も利用されたことから、上水道の必要性は薄れていった。
その結果、享保7年(1722)本所上水は廃止され、小梅以南の水路は埋め立てられた。小梅以北の水路についてはそのまま残された。
亀有上水(本所上水)では廃止以前から、農作物を船で運んでいたが、後に人を乗せて輸送するようにもなった。この舟は『サッパコ』 呼ばれるベカ舟で、網を使って土手から曳いたので『曳舟』と呼ばれた。
曳舟は当初、亀有から四ツ木までを往復した。その後、小梅の辺りまで曳舟が行われるようになった。此の事から江戸末期より明治にかけ亀有上水を曳舟川と呼ぶようになった。これが『曳舟』の地名の起こりである。
画像:曳舟川の道標 左:絵図 右:由来

4、荒川の開削と曳舟川

明治40年(1907)・43年(1910)の大洪水を機に、荒川放水路の開削が始まった。この工事(1907~1910)によって、曳舟川は葛飾側と向島側とに分断された。川の流れは止まり、人家が密集して下水の溜まり場となった。加えて工場の建設が進み、一大工場街が形成され、そこからの工場廃水によって、曳舟川の汚濁は極限に達した。

5、曳舟川通りの誕生

現在の曳舟川通り曳舟川の汚染と交通量の増大から、墨田区内の曳舟川は埋め立てられ、昭和30年(1955)にその工事が完了した。そして新しく誕生した道路は『曳舟川通り』と名付けられ、曳舟川の名残を今にとどめている。
現在、埼玉県越谷市・草加市、東京葛飾区の一部に、亀有上水の面影を残す地域や親水公園があり、昔日の面影を残している。
画像:現在の曳舟川通り

 

画像解説

・「歌川広重 四ツ木通用水引ふね」は、Wikipedia contributors. “曳舟川.” Wikipedia. Wikipedia, 19 Sep. 2013.Web. 21 Mar. 2014. よりパブリックドメイン画像(葛飾区内の風景)
・「歌川広重 小梅之堤」は墨田区発行「すみだ いまとむかし」より転載。都立中央図書館承認済み(押上二丁目、向島三丁目あたりか)

写真に関しては全て ’14/3/21撮影

・曳舟川の道標の写真はスカイツリー下、押上二丁目交差点角  もつ焼 角吉前
・亀有上水の面影の写真は葛飾区宝町一丁目付近
・親水公園の写真は葛飾区新宿三町目付近 冬場は水が無いようです
・現在の曳舟川通りの写真は墨田区京島一丁目曳舟文化センター前付近