花火のルーツをたどる
−中国で生まれ、ヨーロッパで育ち、やがて日本へ−
花火の原形は「烽火(のろし)」

 花火の原形に「蜂火(のろし)」がある。これは古くからおもに信号として世界の各地で用いられていた。紀元前211年、中国では秦の始皇帝が初めて中国全土を統一した。その始皇帝が北方の遊民族の侵入を防ぐために建設した万里の長城には、要所要所に「烽(のろし )台」が設けられている。万里の長城烽台敵の侵入を後方の味方に知らせるためのもので、昼は煙ののろしを上げ、夜は薪を燃やして火をたいた。その薪に加えたのが、黒色火薬の主原料である硝石(硝酸カリウム)だったとみられる 。黒色火薬は硝石75%硫黄15%木炭15%からなる最も古くから知られた火薬であり、花火にとって欠かすことのできないものだ。中国では、この硝石がたき火などに入ると、不思議な燃え方をすることが古くから知られていたという。  
万里の長城(明代)の烽台
(撮影:大塚清吾氏)

 万里の長城の写真 万里の長城
日本での「のろし」の始まり   

  『日本書紀』によれば、天智天皇の3年(664)、九州、壱岐、対馬の3ヶ所にはじめて唐の制度をまねて設置したとある。烽燧(ほうすい)は1ヵ所に4台設置された。高さ4、5メートル、下部の周囲約4メートルの柱状の土台。その上に釣瓶式(つるべしき)に長さ2、3メートルの棒が設置され、一端にカヤ、ヨモギ、生シバなどを適当に混ぜて、その外側を藁(わら)で巻いた周囲7、80センチの筒を煙用として取りつけ、もう一端は発火用の籠を縛りつけていた。別名を「飛ぶ火」という。ちなみに、「烽」は煙であり、「燧」は火を意味する。烽燧とは、今風に書き改めれば「煙火」ということになる。わが国最初の図説百科辞典『和漢三才図会』に、「狼糞の烟気直に上り、烈風有りと雖も斜ならず」とあるように、いつの頃からか烽燧に狼の糞を混ぜて使うようになり、鎌倉時代から「のろし」を「狼烟」と書くようになったという。

『 和漢三才図会』に記された烽燧の絵
『 和漢三才図会』に記された烽燧の絵
火薬の発明と花火
 − 中国で発明されヨーロッパへ−
 隋に続く唐の時代(618〜907)に入って、中国では火薬の発明をみる。古くから黒色火薬の主原料である硝石を使っていたわりには、火薬の発明までに長い時間がかかったといえる。中国における火薬の発明は、錬金術ならびに、不老長寿の薬をつくろうとする煉丹術の副産物であり、古くは紀元前2世紀の淮南王劉安の『淮南子(えなんじ)』に「消、流、炭を使って泥を金に、鉛を銀にしたものがいた」という記録が残っている。消は硝石、流は硫黄、炭は木炭と考えられる。配合さえきちんとしていれば、この時代に黒色火薬が誕生した可能性もあったわけだ。いずれにしても火薬の発明によって、唐代には花火がつくられていたようだ。しかし、中国における最初の花火の出現は南宗(1127〜79)の頃とする説もあり、はっきりしたことはわからない。南宗の頃には本格的な花火が市場に出て、宮廷でもこれを楽しんだという。
近代花火の発祥の地はフィレンツェ?

 中国で基礎を確立された火薬は、アラビア商人の手によって13世紀にイスラム諸国に伝わる。当時のイスラム国には火薬の知識はなく、それは、硝石のことをアラビア語で「中国の雪」と呼んだことからもわかる。当時のイスラム諸国に伝えられた火薬の知識は、13世紀後半にアラビア語の文献によってヨーロッパの知識人の知るところとなり、14世紀前半にヨーロッパ各国はイスラム諸国との戦争の中で火薬を用いた攻撃法を会得する。火薬の伝来と前後して、ヨーロッパでも花火が行われるようになる。最初の花火はイタリアのフィレンツェで行われ、その後またたく間に全ヨーロッパに普及していったとされている。このため、フィレンツェを、近代花火発祥の地とする人もいる。写真は近代花火の発祥の地ともいわれるイタリアのフィレンツェ しかし、この間の事情を正確に記した文献はなく、中国の場合同様に、ヨーロッパにおける花火の起源もはっきりしない。火薬のもつ危険性、軍事的な秘密性が、花火の歴史をも覆い隠してしまったようである。
 
  写真は近代花火の発祥の地ともいわれるイタリアのフィレンツェ(撮影:忠太)

−日本への伝来−
初めて花火を見たのは徳川家康?
  わが国における花火の起源もいろいろ諸説があるが、その主なものをあげると、
(1)天智天皇3年(664)唐の制度にならって創られた冠位制と同時に西国に配置された烽燧説『花火手引」の著書の写真
(2)文久11(1274)蒙古元軍が北九州博多に来襲した時、彼らの使用した鉄砲及び火まり説
(3)長禄元年(1457)太田道潅の江戸築城にあたり発見した燃土説
(4)応仁元年(1467)応仁の乱から開ケ原の役まで続いた戦国時代の狼烟説
(5)天文12年(1543)種子島に伝えられた鉄砲及び火薬説などあるが、起源ははっきりしない。
 『花火極秘伝』の著書の写真 記録から見ると、 『駿府政治録』『宮中秘策』『武徳編年集成』に、慶長18年(1613)8月3日明国の商人がイギリス人を案内して駿府に徳川家康を訪ね、鉄砲や望遠鏡などを献上して、その6日には城の二の丸で明人が花火を立て、家康がこれを見物したとある。これが花火についての信頼できるもっとも古い記録であるという。このイギリス人はジョン・セーリスといい、国王ジェームズ一世の使者として国書を持って日本にやってきたのであった。このとき家康がみた花火について『駿府政治録』は、「立花火」と記している。竹の節を抜いた筒に黒色火薬をつめて、その一瑞に点火して火の粉を吹き出させるもので、いまの玩具花火の「吹き出し」を大型にしたようなものだろうと思われる。これ以前に花火についての確実な文献がないことから、家康の花火見物をもって、わが国における花火の歴史の始まりとされている。
                            
●写真上『『花火手引』すみだ郷土文化資料館蔵:著者不詳、ロケット型花火の形状や火薬調合が記されている。正徳年間(1711〜16)から文化年間(1804〜18)のものだろう。
● 写真下『花火極秘伝』すみだ郷土文化資料館蔵:著者不詳。庭立花火を中心とした構造・製作方法と火薬の調合を記したもの。文政11年(1828)に写したものだ。
     
禁止令にもかかわらず−花火大流行

  家康の花火見物以降、花火はまず諸大名の間で流行することになる。尾張、紀州、水戸の親藩、仙台、加賀藩などの雄藩の花火はとくに人気があり、江戸庶民もタ涼みをかね大名の花火を楽しみにしていたという。それが江戸の庶民の間で急速に流行するようになったのは、花火好きで知られる3代将軍家光が元和9年(1623)に花火を奨励した結果といわれる。珍しいもの好きの江戸っ子がこれに飛びつかないわけがない。子供遊花火の戯の絵の写真あっという間に花火は庶民のものになったようだ。そのため、家康が花火見物してから約30年後の慶安元年(1648)にはもう、「町中に而鼠火りうせい其外花火之類仕間敷事、但川口に需は各別之事」(『享保集成編綸録』)という触れが出ている。鼠火とは、いわゆるねずみ花火、りうせいは、燃えながら火を引いて空中に上昇していくいわゆる流星と思われるが、これらの花火を隅田川以外の町中でしてはならないというわけだ。こうした触が出ていたことから、当時すでに玩具花火のようなものがつくられたり売られたりしていたことがわかる。随筆『飛鳥川』では花火売りの売り声が「花火!花火!ねずみ、手ぼたん、こん車、からくり花火、花火」と紹介されている。これは江戸時代後期の様子を記したものと思われるが、かなり早い時期からこうした花火売りがあらわれていたのではないだろうか。花火を禁じる触れは、その後も慶安5年(1652)、寛文5年(1665)寛文10年(1670、)延宝8年(1680)と、続けて出されている。 何度もくり返し出されているところをみると、禁を破ってまで花火を楽しむ庶民が後を断たず、それによる火事も少なくなかったのだろう。 もっとも、禁止令を出した当人の4代将軍家綱でさえ、寛文9年(1669)7月20日、8月20日の2回にわたって江戸城二の丸で花火を観賞した(『玉露集』)というのだから、庶民が禁止令を守らなかったのも当然のことといえるだろう。(写真は子供遊花火の戯(おさなあそびはなびのあげくら)すみだ郷土文化資料館蔵:玩具花火に興じる子供たちの姿を描いた作品だ。火薬や火を怖がりつつも、火を扱う楽しさに大騒ぎする子供たちが生き生きと表現されている。やけどをこわがりながらもはしゃぐ子供らの台詞がユーモラスだ。この作品は慶応4(1868)年の幕府と新政府軍の対立を子供遊びに見立てたものである。

                      
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