庶民の楽しみ・夏の風物詩
江戸時代の隅田川花火大会

隅田川花火大会のあゆみ

いろいろな花火

花火のできるまで

花火師をたずねて
贅を尽くした隅田川の舟遊び
 隅田川での舟遊びが本格的に行われだしたのは、江戸に幕府が開かれて後のこと。諸大名が船に屋根をつけ、遊女を伴って酒をくみ交わしつつ涼をとったのが始まりだ。3代将軍家光の頃には随分と盛んであったようだ。明暦3年(1657)明暦の大火、いわゆる振紬火事で江戸は全くの焼野原になり、盛んだった舟遊びも一時姿を消した。しかし、その後の江戸の復興、発展ぶりは素晴らしく、17世紀後半(万治・寛文・延宝年間)には、大名、旗本、町人をとわず、しだいに贅沢な生活に走るほどの繁栄ぶりだった。
 なかでも、暑い夏、大名たちの贅沢は隅田川にとどめをさすといわれたほど豪華であった。町人も武士の気風をうけて闊達になり、もうけた金を投げうって大がかりな舟遊びをする者が少なくなかった。舟の借り賃が1日5両したというのに平気で隅田川にのり出し、隅田川が舟で埋まるほどの盛況を呈していたという。          
大繁盛した花火
花火秘伝集(はなびひでんしゅう)の写真 明暦の大火後、万治2年(1659)に両国橋がかけられた。これによって隅田川の納涼は一段と活況を呈し、多くの涼み客が下流の三股(みつまた)(新大橋と永代橋の中間で日本橋より)あたりから、ここに集まるようになった。 はじめの頃の納涼花火は、今でいうところの玩具花火のようなもので、花火を売る舟が屋形船などの間を漕いで回り、客の注文に応じて花火を上げていた。 市中でも花火を上げていたが、度重なる禁上令によって隅田川以外での花火が禁じられていたため、夏の納涼期には花火舟が出て、かなり繁盛していたようだ。
 「一両が花火間もなき光かな」其角
という句からも、その様子がわかる。花火舟だけでなく、餅や酒、あるいは冷やし瓜などを売る小舟が数多くあり、これらの物売り舟を「うろうろ舟」といった。
右写真の説明:花火秘伝集(はなびひでんしゅう)さいたま川の博物館蔵 著者不詳
 火薬を詰めた竹筒から火花を吹き出す庭立花火や打ち出し花火と上ヶ物の構造や作り方、火薬調合を記した書。鉄が光輝剤として使われている。隅田川に浮かぶ船上で行われる花火の様子を描いた「両国納涼図」が収録されている。文化14年の書。

初の両国川開きと花火
新版浮絵江戸両国橋納涼之図(しんばんうきええどりょうごくはしすずしのず)  『東都歳時記』に、「5月28日、両国橋の夕涼み、今日より始まり、8月28日に終る。竝に茶店、看せ物、夜店の始にして、今夜より花火をともす。逐夜貴賎群集す」とある。
 この両国の川開きのときに花火が行われるようになったのは享保18年(1733)5月28日といわれている。そのきっかけとなったのが前の年、享保17年に起こった大飢饉だった。この年、西日本一帯で、いなごの大群が発生するなど全国的な凶作となったほか、江戸市中にコロリ(コレラ)が流行して多くの死者を出した。これを重くみた幕府(8代将軍吉宗)は、翌享保18年5月28日にその尉霊と悪病退散を祈って、隅田川において水神祭を挙行した。この折、両国橋畔の料理屋が公許を得て、同日川施餓鬼を行い、花火を上げたという。これ以降、川開き初日に花火を打ち上げるのが恒例となった。
 江戸名所 両国花火の図(えどめいしょりょうごくはなびのず) このときの花火師は6代目鍵屋弥兵衛で、打ち上げた花火は20発内外であり、その費用は舟宿と両国あたりの茶店などから出された。 当時の花火について随筆『柴の1本』 には「しだれ柳に大桜、天下泰平文字うつり、流星、玉火に牡丹や蝶や葡萄に火車や是は仕出しの大からくり、提灯、立傘御覧ぜよ、火うつりの味わい仕(つかまつ)ったり」と書いてある。 いずれにせよ、立花火が主流で、上空に上がる流星が呼び物になったと思われる。この川開き花火に刺激されたのか、隅田川沿いに屋敷をもつ大名たちは、お抱えの火術家、砲術家に花火を上げさせて楽しむようになった。これら火術家が編み出したのが、いわゆる「のろし花火」だった。のちに、花火師ものろしからヒントを得て、大花火を上げるようになった。 水神祭から始まった両国の花火は、やがて「橋上の一道、人群り混雑し、梁橋たわみ動いて、みるみるまさに傾き陥んとする」 (『江戸繁昌記』)といった賑わいを呈すようになり、江戸の夏を代表する風物詩になっていった。東都両国大花火眺望(とうとりようこくおおはなびちょうぽう) の写真
写真の説明
 ▲上・新版浮絵江戸両国橋納涼之図(しんばんうきええどりょうごくはしすずしのず) すみだ郷土文化資料館 蔵、
歌川国丸 画 :両国橋付近の川開花火見物の様子が描かれている。花火は菊花型の割物で、大きく開いている。川岸には、つたや、叶や、大福やなどの茶屋の屋台が並び、その前を子供に手を引かれる町人や、せんべいを食べなから歩く男、武士、若い町娘などがすぎていく。橋上には見物人がひしめき、川面には多くの屋形船が見物にこぎ出している。橋の構造もよく表現されている文政年間(1820年代)頃の作品。
 
▲中・江戸名所両国花火の図(えどめいしょりょうごくはなびのず) すみだ郷土文化資料館 蔵、 歌川広重(寛政9(1797)年〜安政5年1858)年) 画 :両国川開の花火を描いている。両国橋の上の人物描写にも見物の屋形船にも風情が感じられる。空にはポカ物が開いている。天保14(1843)年〜弘化4(1847)年頃の作品。
 
▲下・東都両国大花火眺望(とうとりようこくおおはなびちょうぽう) すみだ郷土文化資料館 蔵  歌川国貞(天明6(1786)年〜元治元(1864)年) 画 :両国川開花火の見物風景だ。花火は木炭を助燃剤とした伝統的な倭火で半割物の冠柳にポカ物の雨だ。粋な男女や喜び走る子供、うちわ売りの姿などが描かれている。料亭の二階にも沢山の見物人が宴の席から身を乗り出している。安政 4(1857)年4月の作品。

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