江戸の花火を発展させた鍵屋と玉屋 いろいろな花火
花火の作り方
花火師をたずねて
隅田川花火大会のあゆみ
鍵屋弥兵衛−大和の国(奈良)から江戸へ−
 隅田川(江戸)の花火を発展させた立て者といえば、「鍵屋」「玉屋」の二大花火師である。鍵屋看板の写真
初代鍵屋は、大和の国は篠原(奈良県吉野郡〉の出身で、名を弥兵衛という。子どもの頃から花火づくりがうまく、時おり訪れる客に、火の玉の出る花火を見せて驚かせたという話が残っている。明暦年間(1655〜57)、弥兵衛は志を立て故郷の篠原村をあとにし、道中、花火を見せては旅費を稼ぎ、遠州浜松を経て江戸に入った。日本橋横山町に店を構え、花火を売り出すようになるのは万治2年(1659)のことである。八代鍵屋弥兵衛の半纏 
 『日本橋区史』には、「江戸に烟火業者起りしは万治年間のことにして、当時はもっぱら幕府の御用達を勤めしのみ」とあり、また、万治2年の頃には「花火師鍵屋弥兵衛御本丸御用達となる」とある。江戸に出てきて花火を売り出した年に、早くも将軍が上覧する花火を上納するほどに急成長したということになる。当時、弥兵衛が得意としていたのは、葦の管に火薬を練った玉を詰め、管から火の玉の飛び出る花火で、現在の玩具花火の5連発や7連発、いわゆる「乱玉」の初歩のようなものだった。以来、代々鍵屋弥兵衛を襲名するようになり、6代目鍵屋の代からは両国の川開き花火を担当。川開き花火が隆盛になるとともにその名を高めていった。 (写真右鍵屋の看板・左八代鍵屋弥兵衛の半纏)
番頭清七鍵屋から分家玉屋市郎兵衛と改名
 文化7年(1810)鍵屋の腕の良い番頭清七(『鍵屋伝書』)には新八とある)が暖簾を分けてもらい両国広小路吉川町に分家する。鍵屋は鍵屋稲荷を守護神としていた。その祠の前の狐の一方が鍵を、一方が擬宝珠(ぎぼし)の玉を持っていた。鍵屋は清七を分家させるときに、この玉を与えた。そのため清七は玉屋を名乗り、名前も市郎兵衛と改めた。『鍵屋伝書』には玉屋煙火の儀は元来7世鍵屋弥兵衛に召使罷在候新八と申者、煙火製造熟練の上自ら両国広小路に開店致し其家号を玉屋と称し、其後両国川開之節も私店同様煙火打揚来り・・・」とある。
鍵屋・玉屋両国橋を挟んで花火の競演「玉屋の人気絶大」
 鍵屋・玉屋の時代になって、両国の川開き花火は、両国橋をはさんで上流を玉屋が下流を鍵屋が受け持つようになった。玉屋の人気は鍵屋をしのぐほど高かった。この頃から浮世絵の画題としても花火が多く登場するようになるが、もっぱら描かれているのは玉屋であり、このことからも玉屋のほうに人気があったことが察せられる。花火技術も優れていたのだろう。その証として、「橋の上、玉や玉やの声ばかりなぜに鍵やといわぬ情けなし」といった歌も残っている。
「玉屋」火事を起こし江戸払いとなる。

 ところが、いいことはばかりは続かない。天保14年(1843)4月17日玉屋は失火によって全焼、町並を半丁ほども類焼させてしまった。当時、出火は重罪であり、しかも将軍家慶が日光へ参拝に出かける前日であったため、玉屋は江戸払いの罪を科せられ、追放処分となってしまった。江戸庶民の絶大な人気を集めた玉屋も一代限りでその家名を断絶したのである。結局、鍵屋・玉屋の時代は、32年間で幕を閉じたが、玉屋の名は江戸庶民の間に語り継がれ其の後の花火大会でも江戸っ子達は「かぎやぁ〜」「たまやぁ〜」と歓声を上げて見物した。現代では「ワー」という歓声に変わり「かぎやぁ〜、たまやぁ〜」と叫べば場違いと思われる。

鍵屋・玉屋の現代は?

 鍵屋は其の後も両国の花火を引き受け、12代鍵屋弥兵衛が昭和40年に天野道夫氏に、鍵屋の暖簾を譲るまで、世襲的に暖簾を守った。現在は天野氏が継いで「宗家花火鍵屋」(東京都江戸川区)を名のっている。
 一方江戸を追われた玉屋は現在八千代市の中島さんが戦後市川の方から玉屋の暖簾を買って花火店を経営されている。初代の直系ではないが暖簾だけは、次々引き継がれ守られているようだ。(花火千一夜より抜粋加筆)


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