大横川親水公園
 
 
平成19年4月1日撮影


  大横川地図


ガーちゃん今日はいよいよ大横川親水公園よ。昔、川だったんだけど、今公園になってんのよ。気楽にお散歩しましよう。

デンくんハイハイ、釣り堀もあるよ! 長いすべり台もあるよ! 楽しそうだね。 マラソンしてる人や、犬を連れた人が大勢いるね。
ガーちゃん公園の中に、茶店とかcafeとか、なにかあると良いのにね。 さてデンくん、今日は何か勉強してきたこと無いの?
デンくんありません。 今日は5月5日で、こどもの日だから今日は勉強お休みです。
ガーちゃんあっそう、こどもの日ね。まあ一年で一番さわやかな時に来たんだから、お花も見なくちゃだめよ。ツツジがきれいでしょう。
デンくん ハイハイきれいです。ガーちゃんもきれいです。だからさ、今日は何をご馳走してくれるの?

ガーちゃん平川橋を東に行くの、押上の方ね。そうすると税務署があるのよ。その裏あたりに、その昔「ナメクジ長屋」というのがあったのよ。落語家の五代目古今亭志ん生が住んでたことあるの。本所も大横川から東は湿気がすごくて、人が住めるようになるまで大変だったのよ。その近くにお城の形をした和菓子屋さんがあるのよ。そこで子供の日だから、柏餅を買ってあげましょう。ホントは栗最中が有名なのよ。
デンくんはいはーい、何でもいいです、でも年の数だけ買ってね。
ガーちゃん・・・・・チッ。
やっぱり今日もお勉強することにしましょう。
大横川親水公園は、水は無くても、橋は残っているのよ。公園内に7本、竪川から先の大横川に3本ね。きっちり見ていきましょう。
デンくんあっ、ボク柏餅一つでいいです。

 


 
大横川に架かる橋
 
クリックしてみて
   
業平橋
     業平橋 (なりひらばし)
全長31.7m・幅33m/東京都の管理
 


 吾妻橋三丁目方面と業平一丁目を結ぶ橋で、現在の橋は昭和5年にかけられたものです。創架は寛文2年(1662年)。
 橋の名のいわれは、この橋の西側にしばられ地蔵で有名な天台宗南蔵院というお寺があり、その境内に業平天神という在原業平を
祀るお社があったことから付けられました。南蔵院は関東大震災のあと葛飾区水元に引っ越しましたが、業平天神はその時に廃社となっています。
  この橋のすぐ北側の源森川とこの大横川は元は直角につながっていました。今は大横川そのものが親水公園となっているので、面影もありません。かつての源森川と大横川の合流点には公園の管理事務所があり、子供たちの遊び場にもなっています。事務所は船の形をしていて、2階部分からは長いすべり台が地上まで伸びています。
 このあたりは、シジミが名物だったそうで、新タワーが出来ると、深川のアサリのように名物として売り出す新しい老舗が出てきそうです。


平川橋
     平川橋 (ひらかわばし)
全長28.17m・幅11m/墨田区の管理
 


 東駒形四丁目と業平一丁目を結ぶ橋で昭和4年に架けられました。
 この橋の東側が業平という町です。この町は 昭和42年の住居表示変更まで、業平橋と平川橋という地名で横十間川まで並んで続いていましたが、
42年に業平一〜五丁目という町名に統一されました。その無くなった平川橋という町名は昭和5〜6年に付けられたので、橋の名の方が先ですが、由来の資料が今のところ見当たりません。

 昭和初期に架けられた橋はほとんど、関東大震災の教訓により、帝都復興計画によって造
られたものです。橋の数が少なくて、大変な人的被害を被ったからです。
 この橋の東詰めには住宅供給公社業平橋住宅があり、その東には本所税務署があります。


横川橋
     横川橋 (よこかわばし)
全長32.65m・幅22.7m/墨田区の管理
 


 本所四丁目と横川一丁目をつなぐ橋で、昭和3年に架けられました。
 この橋は春日通りに架かっています。無くなった北割り下水のあった通りです。
 横川橋というのは元は大横川に架かっていたのではなく、割り下水に架かっていたらしく、関東大震災後の復興計画で割り下水が取り払われた後 、大横川に架けられた橋を同じように横川橋と呼ぶようになったそうです。
 古地図を見ると大横川の西側にそって、業平橋から報恩寺橋あたりまで、細長く中之郷横川町という町屋が見えます。この橋の名はそこから付いたと思われます。
 今の横川という町名は別でこの橋の東側にあり、昭和6年に区画整理によって付けられた名前です。
 
この橋の東詰めには大震災遭難者追悼碑があります。横網の被服廠跡では約3万8千の方が亡くなられましたが、このあたりにも水辺をたよった3.600名あまりの人が焼死しています。
 同じく東詰め上流側にはトミンハイムと日本たばこ産業のグラウンドがあります。


もみじ橋
     紅葉橋 (もみじばし)
全長35.11m・幅11m/墨田区の管理
 

 
  石原四丁目と横川一丁目を結ぶ橋で、昭和5年に架設されました。
 この橋の西に能勢妙見堂 があります。柳島にも葛飾北斎が通ったという妙見様がありますが、こちらは勝海舟の父小吉が通いました。この一風変ったお父さんも息子の怪我の快癒や出世祈願のため水ごりをとっています。このお寺では今でも2月の寒い日に水行が行われます。
 紅葉橋という名は、このあたりに楓川という細い流れがあったので、それにちなんで付けられたそうです。

  大横川の左岸、横川橋から紅葉橋、報恩寺橋にかけてはお寺さんの巣です。本法寺、霊山寺、報恩寺などが町の一角を形作っています。


法恩寺橋
     法恩寺橋 (ほうおんじばし)
全長15.94m・幅22.6m/東京都の管理
 

 
  石原四丁目と太平一丁目を結ぶ蔵前通りに架かる橋で、現在の橋は昭和57年の架設です。
 この橋の創架は、横川が掘られた時と同じ万治2年(1659年)と云われ、名前は東に平河山法恩寺があるがためです。しかし、江戸平河にあったこのお寺がこの太平町に移転してきたのは元禄元年(1688年)なので、はじめは違う名の橋だったのかもしれません。
 この橋は、石造りでたいへんどっしりした佇まいをしています。昭和57年の架設となっていますが、中央部分のみを架け替えたので、あとは大正13年頃出来たままです。
 太平町という地名は太田道灌の「太」と平川山法恩寺の「平」をとって付けられたという説もあります。

 

       

清平橋
     清平橋 (きよひらばし)
全長38.97m・幅11m/墨田区の管理
 
 亀沢四丁目と太平一丁目を結ぶ橋で昭和4年に架けられました。かつて亀沢4丁目に清水町という町がありましたので、太平と清水のそれぞれ一字をとり清平橋と名づけられました。
 この橋は両脇に水道管にはさまれて、すさましい状況になっています。

長崎橋跡
     長崎橋跡(ながさきばしあと)
 

 
 亀沢四丁目と錦糸一丁目を結んでいた橋で、北斎通りに架かっていました。今はありません。
  元禄10年(1697年)の創架ですが、昭和46年架設のトラス橋を最後に、大横川親水河川整備の際、役目
を終えて撤去されました(昭和63年3月)。橋の名は西側に長崎町があったので、そこから付けられました。
 この橋の脇にある広場では 、ガラス市やフリーマーケットなど各種イベントが開催されます。
  長崎橋跡東、アルカウエストの前には津軽稲荷があります。

 

       

江東橋
     江東橋 (こうとうばし)
全長20.8m・幅35m/国の管理
 

 
  緑四丁目と江東橋一丁目を結ぶ京葉道路に架かる橋です。国道なので幅が広く、橋の長さに対し倍近くあります。明治31年創架で、現在の橋は平成7年製の比較的新しい橋です。
 江東橋という地名は昭和42年の新住居表示によって付けられたもので、明治31年に造られたこの橋の名の方が先です。単なる江戸の東という意味でしょうか。
 京葉道路といえば、江戸時代は成田山への参詣路として賑わいました。
 
その京葉道路の錦糸町南口バスロータリーのところに伊藤左千夫牧舎兼住居跡の碑があります。あの涙なくしては読めない「野菊の墓」を書いた伊藤左千夫が牧場を開いており(明治22年),乳しぼりをしていたそうです。現在の賑わいを見るにつけ、なんとも隔世の感があります。
 この橋の東詰めには、都立両国高校があります。戦前は東京府立第三中学校と言い、芥川竜之介や「グレート・ジャーニー」でおなじみの探検家の関野吉晴さんなど多くの著名人を排出する名門校です。

 

       

撞木橋跡
     撞木橋跡(しゅもくばしあと)
 

 
 かつて竪川と横川の合流地点には北辻橋、南辻橋、新辻橋の三ッの橋が架かっていて、まとめて撞木橋(しゅもくばし)とも呼ばれていたようです。撞木橋跡とは左図の北辻橋のことで、昭和63年6月に撤去され、今はもうありません。この橋のすこし北で大横川の西岸に鐘撞堂があったのでそう呼ばれるようになりました。
 仙台藩主松平陸奥守が幕府から日光霊廟の建築を命ぜられ、材木の貯蔵地であるこのあたりに、作業場を作りました。たくさんの職人さんに時刻を知らせるため「時の鐘」を鋳造し、時刻を知らせました。工事終了後は民間に下げ渡したそうです。

 撞木橋跡は馬車通りにあり、通りの北側の真ん中に「時の鐘」のレプリカがあります。

 

       

南辻橋
     南辻橋 (みなみつじばし)
全長34.62m・幅11m/墨田区の管理
 


 立川四丁目と江東橋五丁目を結ぶ橋で、創架は本所地割の万治2年で、現在の橋は昭和6年の架設です。古くは南横堀橋と云ったそうですが、享保年間(1716〜1735年)に南辻橋となりました。
 辻とは道が十文字に交差するところを言いますが、川もそう言うのでしょうか、辻の南にある橋です。
 撞木橋の所で大横川親水公園はお終いです。大横川は竪川の所から水を得て、江東区に向かって南進します。

 

       

菊柳橋
     菊柳橋 (きくやなぎばし)
全長37.91m・幅11m/墨田区の管理
 
 
 
菊川三丁目と江東橋五丁目を結ぶ橋。昭和5年に関東大震災の復興計画によって架設されました。江東橋5丁目に柳原三丁目という町があり、菊川とつなげていたので柳と菊で菊柳橋ということです。このあたりでも震災で多くの方が焼死しています。
 取材中(平成19年5月5日)、この橋の上で青年がじっと水面を見ているので、ダンボールに入れられた仔犬でも流れているのかなと覗いてみると、なんとたくさんのクラゲがプカプカ。川にもクラゲがいるのですね。5月13日には北十間川にもいました。


菊川橋
     菊川橋 (きくかわばし)
全長38.2m・幅22m/東京都の管理
 
 
  菊川三丁目と江東橋五丁目を結ぶ橋で昭和63年に架設されました。創架は元禄15年(1702年)で、はじめは間之橋(あいのはし)と呼ばれていましたが、享保5年(1720年)に架け替えられた時、今の名となりました。その昔この橋の西側に菊川という小さい流れがあったので、町名にもなり橋の名前にもなりました。
 このあたりが本所と深川の境です。
  本所は三度火の海となっています。安政の大地震、関東大震災、そして東京大空襲です。その度に不死鳥のように蘇る、バイタリティのある町です。この橋の西詰めに夢違え地蔵尊があります。大空襲による菊川周辺の殉難者三千余名を弔うと共に、悪夢の消滅を願い、これを善夢に導き再び惨禍を繰り返さないようにとの願いからつくられた地蔵尊です。
 菊川橋は新大橋通りに架かっていますが、この通りをもう少し西に行きますと、火付盗賊改方、長谷川平蔵の屋敷跡 があります。

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引用文献 :
「史跡あちこち 川と橋と渡し」東京都墨田区企画広報室
「橋はかたる」昭和58年3月/社会教育だよりすみだ
「東京の橋」石川悌二 株式会社新人物往来社
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