常陸水戸藩35万石下屋敷

墨田区向島一丁目

水戸藩の地図

水戸藩下屋敷は、水戸街道を挟んだ向島一丁目に位置していました。
今はその半分ほどが隅田公園になっていて、人々の憩いの場となっています。
公園内にある牛嶋神社は関東大震災後に須崎から遷座されたもので、下町すみだの総鎮守です。

隣接していた常泉寺は当時は源森川までありましたが、
昭和3年に言問橋が出来たときに言問通りの関係で縮小したものです。
常泉寺と言う名はたしか長命寺の前の名前だったよ。こんがらがるな。


源森川は人口の掘割ですが、横川と直角に交差する辺りは、良質のシジミがとれました。
東京スカイツリーが出来ますと、この辺は大観光地となりますので、
深川のアサリ同様、シジミを名物にすれば良いと思うのですが、
今のところどの飲食店さんもそのような動きはありません。
西郷隆盛が向島に逼塞していた時、犬を連れて釣りに来ていたのはこの川です。
ちなみに源森川は河童のすみかで有名でした。

隅田公園の写真
'10/03/03 隅田公園 水戸藩下屋敷跡 
隅田公園の池から建設中の東京スカイツリーを望む


 安政三年時のデータ
言葉あんない
藩名 常陸(ひたち)水戸藩35万石(親藩御三家)
初代藩主 徳川頼房(よりふさ)
安政三年時 藩主
(1856年)
十代 慶篤(よしあつ)
官名 水戸中納言
居城地 茨城県水戸市
江戸上屋敷 小石川御門外(文京区後楽1丁目後楽園)
江戸中屋敷 駒込(文京区本郷7丁目東大農学部)・目白
江戸下屋敷 本所小梅村(墨田区向島1-3隅田公園)23,110坪
こぼれ話
水戸藩は御三家のひとつ。
 御三家とは徳川家存続のため家康が遺したもので五代将軍綱吉の時に確定しました。
 ◎尾張家は家康の九男義直(よしなお)にはじまる徳川家。
 ◎紀州家は家康の十男頼宣(よりのぶ)にはじまる徳川家。
 ◎水戸家は家康の十一男頼房(よりふさ)にはじまる徳川家。
 将軍家の跡継ぎが絶えた場合、御三家から出すということになっていましたが、尾張から出るということはありませんでした。


・水戸藩には参勤交代はありません。定府です。 常に江戸にいて、幕府を補佐していました。
・水戸黄門は二代目の藩主で、光圀(みつくに)さんと言いますが、諸国を漫遊した記録はありません。中納言のことを唐名で「黄門」といいます。
・ 水戸藩は勤皇思想の先駆けとなった藩でしたが、幕末の動乱で藩内が派閥抗争でズタズタになり、 明治維新には出番がありませんでした。桜田門外の変で彦根藩主、井伊大老を襲撃したのは水戸藩の浪士です。
・慶喜(よしのぶ)という人は、水戸の九代斉昭(なりあき)の子で、一ツ橋家に養子に入り後に十五代将軍になった人です。

水戸黄門
回天神社内の水戸黄門諸国漫遊旅姿像 2010/8/14

当サイトNo.16の高崎藩のところと重複しますが、ここでも記しておきます。
天狗党と下仁田戦争

 元冶元年(1864年)水戸藩の尊攘過激派の「天狗党」は攘夷を実行しようと筑波山で挙兵しましたが藩内の反対派や幕府の反撃で敗退してしまいます。そこで彼らは禁裏御守衛総督をしていた一橋慶喜に訴えようと京に向かうことになったのです。途中で高崎を迂回するように通過しますが高崎藩は幕府から討伐の命令を受けていたので追撃し、下仁田付近で激戦となりました。
 天狗党は約1,000名もの軍勢に大砲まで所持していたので、高崎藩は戦死者36名を出し敗北してしまいました。
 天狗党も結局は鶴賀で降伏し、鰊倉(にしんぐら)に押し込められた上、武田耕雲斎はじめ斬首353名、他の人達も過酷すぎる処罰を受けたのです。命じたのは一橋慶喜、のちの15代将軍です。皮肉ですね。この人は水戸の出ですが身内を切りましたよ。



参考文献:藩史大事典(雄山閣)・復元江戸情報地図(朝日新聞社)・江戸三百藩(人文社)

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